世論の反応とSNSでの議論
通勤時間に賃金を支払うべきかについて、日本では近年SNSを中心に大きな議論が起こりました。特に2025年には「通勤手当に課税するなら通勤時間も労働時間と認めろ」という声がSNSで拡散され、話題となりました。これは、国会質疑で通勤手当(交通費手当)が「労働の対償」として社会保険料算定の対象になっていると説明されたことに対し、多くの働く人が違和感を覚えたためです。実際、ネット上には次のような 怒りの声 が上がりました:
- 「電車通勤の人は定期購入で立て替えた分を会社から返してもらってるだけなのに(それに課税するのはおかしい)」
- 「通勤手当に課税するなら通勤時間も労働時間として賃金が発生するべき」
こうした投稿には多くの共感が集まり、「通勤にかかる時間が実質タダ働きなのは不公平だ」という世論が高まったことがうかがえます。メディアでも、「もし毎日の通勤時間が労働時間として認められたらどんなにありがたいか」という論調の記事が見られました。新型コロナ以降テレワークが普及したことで、「通勤」という行為そのものへの疑問(時間と体力の損失ではないか)も強まっており、通勤時間の扱いを見直すべきだという声が一般に広がっています。
労働者の声:通勤も「労働」だという主張
労働者側からは、通勤時間も広い意味で労働の一部だという主張があります。長時間の満員電車通勤は心身に負担が大きく、仕事のために拘束されている時間だと感じる人が多いようです。実際、一部の論者は「本来の仕事に加えて“通勤電車に乗る”という仕事をしているようなもの」と指摘しています。例えばブロガーのちきりん氏は、片道1時間の通勤をする社員は、会社から交通費(月2万円程度)を支給される代わりに、毎日2時間を時給約454円程度の“アルバイト”として満員電車に費やしている計算になると試算しています。このように、「通勤時間は低賃金の隠れた労働だ」との捉え方があり、労働者の間では「せめてその時間に見合う補償が欲しい」「テレワークで通勤がなくなった分、プライベートが充実した」という声も少なくありません。
また、悪天候時などに通勤で追加の負担を強いられるケースも労働者の不満につながっています。「明日は大雪だから通常より早く出社せよ」と会社から求められた場合、労働者からは「自分のプライベート時間を削ってまで早出するのは納得いかない。それも仕事では?」といった反発が起こります。実際に大雪の日に上司の指示で早朝から同僚の送り迎えを行った労働者が、遅刻扱いされそうになり「納得できない」という相談がインターネット上に寄せられた例もあります(※Yahoo知恵袋への投稿, 2022年2月)。労働者の立場からは、通勤時間や悪天候時の早出も含め「会社のために拘束されている時間」である以上、何らかの形で待遇に反映されるべきだとの主張が根強くあります。
企業側の見解と法的な扱い
一方で、企業側の一般的な見解としては「通勤時間は労働時間ではない」というものがあります。これは日本の労働法制上も明確です。労働基準法上の労働時間とは「労働者が使用者の指揮命令下に置かれている時間」と定義されています。自宅と職場を往復する通勤時間は原則としてこの指揮命令下にはないため、労働時間とはみなされず賃金支払いの対象にもならないのが通例です。実際、多くの企業は就業規則等で「通勤は自己責任で行うもの」と位置づけており、法律上も会社が通勤時間分の時給を支払う義務はありません。
企業側から見れば、通勤時間まで賃金を支払うことにはコスト面・運用面の課題があります。日本では世界的にも珍しく会社が通勤手当(交通費)を支給する慣行がありますが、これは法律上の義務ではなく福利厚生の一環です。通勤費だけでも企業にとって負担となっており、さらに通勤に要する時間分まで労働時間として賃金支給するとなれば、相当なコスト増になります。とりわけ日本は通勤時間が長い傾向があり、首都圏では片道1時間以上も珍しくありません。人事労務コンサルタントの分析によれば、欧州では平均通勤時間が片道30分程度なのに対し日本は2〜3時間往復にかかるケースもあり、その通勤時間を労働時間とみなして短縮勤務にすると企業の負担が大きすぎると指摘されています。また、通勤時間を労働時間として認めると労働時間の管理が複雑化し、時間外労働の上限規制にも影響するため、企業側には慎重な姿勢が見られます。
要するに、企業側は「通勤はあくまで労働に付随する私的行為」であり、その時間への賃金支払い義務までは想定していないのが現状です。多くの企業は通勤時間の削減にはテレワーク推進やオフピーク出勤奨励などで対応しようとしていますが、賃金支給となると別問題として捉えられています。
悪天候時の早出通勤をめぐる議論
大雪や台風など悪天候が予想される日の対応も、この問題を考える上で注目されています。日本の企業では、天候によって交通機関に乱れが出そうな場合に「始業時刻に間に合うよういつもより早めに出社するよう指示する」ケースがあります。法律上、会社は合理的な範囲で労働者に指示を出す権限を持つため、数十分程度の「早め出社要請」は労働契約の範囲内とも解されます。実際に人事向け情報によれば、天気予報で大雪のピーク時間帯を避けるために出社時間を遅らせたり早めたりとシフトする対応を取る企業もあるようです。例えば「大雪が昼頃ピークなら始業を1時間遅らせる」「朝方ピークなら逆に1時間早く出社してもらう」等の措置です。
しかし、労働者から見ると「早出」の指示は実質的な労働時間の前倒しであり、本来ならその分の賃金(早出残業代)が発生すべきとの考えがあります。法律的にも、会社の命令で通常より早く出勤した場合、その時間は労働時間として扱われます。弁護士の解説によれば、「会社から強制されて早く出勤した場合は、その時間も労働時間となり、適切な手当や残業代が支払われていなければ労基法違反になり得る」とされています。したがって、悪天候を理由に社員に早出を求める場合、企業はその取り扱いに注意が必要です。
現実には、「早めに出社して待機するのは社員の自己判断(サービス残業)」として処理されてしまうケースもあり、これが労働者の不満につながっています。SNS上でも「雪の日に早出強要されて結局待機させられた」「早く出社しろと言うならその分賃金を出してほしい」といった声が見られます(※Twitter上の匿名投稿など)。一方で企業側も、「社員の安全確保のためやむを得ない措置」と説明することが多く、この点でも労使の受け止めにギャップがあります。総じて、悪天候時の通勤対応は「安全配慮」と「賃金補償」のバランスが問われる問題として議論されています。
海外(欧米)での類似の議論や制度
海外に目を向けると、通勤時間に賃金を支払うかという問題について、日本とは異なる制度や議論が見られます。ただし、大前提として多くの国で通勤時間は労働時間と見なされず、賃金支払いも行われていない点は共通しています。むしろ日本のように企業が通勤費を手当として支給する方が世界的には珍しく、欧米では基本的に通勤費は自己負担(企業支給なし)が当たり前とも言われます。そのため「通勤時間に時給を払う」という発想自体、海外ではこれまであまり一般的ではありません。
しかし近年、欧州を中心に通勤時間の扱いを見直す動きが出てきました。象徴的なのは2015年の欧州司法裁判所(ECJ)の判決です。この判決では、「一定の仕事場を持たない労働者」について、自宅から最初の訪問先まで及び最後の訪問先から自宅に戻るまでの移動時間を労働時間の一部と見なすと示されました。例えば各地を回る電気技師や営業担当者のように事業所に寄らず直行直帰する労働者が対象で、従業員の安全と健康を守るために移動時間も勤務時間に含める必要があるという趣旨です。注意すべきは、この判決はあくまで「勤務地が固定されていない労働者」に限ったものであり、毎日決まったオフィスに通う一般の会社員の通勤時間まで労働時間と認めたわけではないという点です。欧州でも通常の通勤は私的時間という原則は維持されつつ、働き方の多様化に合わせて例外的な状況で通勤(移動)時間を労働時間に含める動きが出ているといえます。
もう一つ注目すべき事例はスイス政府における取り組みです。スイスでは2020年1月から連邦政府の公務員約4万人を対象に、通勤中に行った業務を勤務時間として認め、賃金を支払う制度が導入されました。具体的には、通勤電車の中でノートパソコンを開いて仕事をするような場合、上司の承認を得ればその時間が勤務時間としてカウントされるようになったのです。この制度は「モバイルワーク指令」の一環として施行されたもので、通勤中にも業務対応をしている実態に見合う形で労働を正式に評価しようという狙いがあります。背景には「通勤中にメール処理や資料作成をしているのに、その分が無報酬なのはおかしい」という労働組合からの強い要望があり、政府が柔軟な働き方を促進する目的で応えた形です。ただしこの措置はあくまで公務員(連邦職員)に限られ、民間企業の社員については各企業と従業員の取り決め次第となっています。
欧米諸国でも通勤時間そのものに賃金を支払う制度が一般化しているわけではありませんが、上述のように「仕事に必要な移動であれば勤務と見做す」「通勤中の業務は評価する」といった限定的な形での制度は現れ始めています。さらにフランスでは制度面で通勤に対する企業の責任を負わせる例として、企業が従業員の公共交通機関定期代の少なくとも50%を負担することを法律で義務付けているケースもあります(※これは通勤「時間」への賃金ではなく通勤「費用」負担の制度ですが、通勤を社員個人だけの問題としない考え方の表れです)。総じて海外でも「通勤負担の軽減」「移動時間の有効活用」といった観点から議論は進んでおり、日本の議論にも少なからず影響を与えています。
まとめ
日本では、通勤時間に時給を支払うべきかという問いに対し、労働者側は「通勤も労働の延長であり報酬があって然るべきだ」という声を上げ始めており、SNSやメディアで共感を呼んでいます。一方、企業側は法的原則どおり「通勤時間は労働時間外」とみなし現状維持を望む傾向にあり、両者の意見にはギャップがあります。悪天候時の早出出勤の問題など、具体的な場面でもその溝が表面化しています。
海外に目を転じれば、欧州を中心に通勤時間の再評価が進みつつあるものの、一般的な通勤まで含めて賃金支払いを義務付けている国はまだありません。ただし働き方の柔軟化に伴い、「移動も仕事のうち」とする考え方が広がり始めているのは確かです。日本でも同一労働同一賃金や働き方改革の流れの中で、通勤時間の意味合いについて議論が深まる可能性があります。今後、テレワークの定着や労働力不足への対応とも相まって、通勤時間への賃金支払いという今日の問いについても、より具体的な制度論が展開されていくことが予想されます。
参考文献・出典:
通勤手当に課税されるとの報道に対するSNSの反応
トレンド解説記事
労働法における通勤時間の扱い(One人事の解説)
ブログ「Chikirinの日記」での通勤手当に関する指摘
弁護士による早出出勤の法的解説
大雪時の企業対応に関する人事向け記事
欧州司法裁判所の判決に関する報道
スイスの通勤中業務の取組に関する報道
海外制度に関する解説